さても久しぶり [雑記]
帰任してから各地を訪れて:番外1 [東日本大震災]
帰任してから各地を訪れて:2 [東日本大震災]
昨年から今にかけてのこと:8 [東日本大震災]
帰任してから各地を訪れて:1 [東日本大震災]
ブログ再々開 [東日本大震災]
昨年から今にかけてのこと:7 [東日本大震災]
もう少しで夜が明けようかと言うときに、課長より「電車も動いているようだし、帰って少し休んでください。」とお言葉を頂き、帰ることにした。
幸い、使っている路線、二線は動いていた。
(承前)
やはり、気分が高ぶっていたのであろう。
何を考えたか、途中で降りて、行きつけのレストラン&バーに行っていた。
まぁ、事前に電話をしていたのだが。
地震で酒瓶が倒れて大変だったとか。
行ったときは、もう朝方5時近かったので、片付いていたようだが。
店には、客は一人だけ。JRが運転を止めて帰れない八王子(立川?)にお住まいの方だったか。
随分と不如意のようだったが、さすがに立川(八王子)では、送っていくのもままならず。
小一時間、話をして地下鉄などを乗り継いで帰宅したときには、もう夜も開けていた。
帰ってみて、自宅の内部を確認してみたが、基本的に何も被害は無し。
わずかに、本棚の本が少し落ちていたくらい。
食器なども、被害は全くなし。
帰宅してから、ずっとNHKをつけてテレビを見ていたが、基本的に東京電力福島第一原子力発電所の事故の件に終始。
勿論、地震・津波の被害の様子も報じられるが。
しかし、東電福島のことが気にかかる。
今から思うと、浅はかなことだが、スクラムしたということが報じられていたから、さほど心配はしていなかった。
しかし、このとき既に燃料溶融が始まっていたとは。
昨年から今年にかけてのこと:6 [東日本大震災]
その一方で、東京電力福島第一原子力発電所の報道も断続的であるが、引き続き流れてきていた。
そうやって、震災の一日目の夜は深まり、朝を迎えつつあった。
(承前)
深夜の飯は、どうしていたか?忘れた。夕飯は、何となく握り飯を食った記憶はある。
深夜の飯は、たぶん、庶務班の女性が、地下の食堂から調達してきたのではなかったか?しかし、それは、二日以降の記憶かもしれない。
いつもは、移動に伴う歓送会や歓迎会で食べていた、地下の第一食堂の焼きそばや野菜炒めを、皆で何となく黙々と食べていた記憶しかない。その間も、メールは次々に入ってくる、テレビはかまびすしい。
途中、長野で大きい余震があった。隣の補佐は、長野出身。しかし、余り動ずる様子もない。
その後も、メール頻々。打ち合わせも散発的に行われるが、余り様子は分からない。
途中、交通機関が動き始めたという知らせも入り、「ジョルダンライブ」の状況をプリントアウトして、課内に張り出したりしていた。これは、課内で随分助けてもらったと、後で言われた。そのあとも。
基本的にやることもなく、ただひたすら、東京電力福島第一原子力発電所の事故の情報を集めていた。
後に、講演会で話をして頂く、東京大学大学院の早野先生のツィートを「発見」するのはもう少し後の話。
今になって悔やまれるのは、ソーシャルをその時点でもっと活用していれば佳かったということ。
自分の職場でも、帰宅難民の方々を受け入れていたし、何よりも早野先生のツィートをもっと真剣にウォッチしていれば良かった。
後悔先に立たずだが、痛恨の念に堪えない。
深夜も過ぎて、基本的にはNHKの番組を見ているしかない。
気仙沼の、湾の火災はいっこうにおさまならない。
大槌も、酷い状況だというのは分かるが、どうしようもない。
ただ、画面を見ているしかない。
もう少しで夜が明けようかと言うときに、課長より「電車も動いているようだし、帰って少し休んでください。」とお言葉を頂き、帰ることにした。
幸い、使っている路線、二線は動いていた。
昨年から今にかけてのこと:5 [東日本大震災]
東京電力福島原子力発電所のことは、なんとなく、気になっていた。
夜になって、とうとう、東電福島のニュースが入ってきた。
(承前)
今、色々と本を読むと、11日の夜から東京電力福島第一原子力発電所は、深刻な状況に至っていたことが分かる。しかし、当日夜はとにかく、地震と津波の影響に皆の目が向いていたように思う。もちろん、私もそうだ。
ブログでも、ツィッターでもフェイスブックでも、「フクシマ」などとは表記しない。「フクシマ」と表記することに、何の意味があるのかと思っている。ましてや「Fukushima」とか。何を意図しているのか?福島は福島だ。もちろん、宮城は宮城だ。不可思議な(不愉快な)レトリックだと思っている。
正直な話、自分自身、東北の(もちろん、一括りにはできないが)の被害について強い気持ちを寄せるようになったのは、自分の郷里が被害を受けつつも、ほんの一週間も経たずにニュースから消え失せてしまったことがあるが、震災後すぐの全国紙各紙で「がんばっぺ福島」などと、賢しらに方言を使った見出し・記事が続いたことにある。
このことは、後に書く。
とにかく、11日に深夜から東京電力福島第一原子力発電所の危機的な状況が報じられるようになる。
しかし、自分自身、「原発ムラ」の(片隅の)一員であったこともあり、正直な話、楽観していた。何とか、収束するだろうと思っていた。
11日深夜、多くの課員は帰っていたが、課長は相変わらず課長室を出たり入ったり。そして、窓際(補佐)を集めて情報共有が続いた。
その間、東電のニュースがウェイトを増しつつも、福島・宮城・岩手沿岸の津波被害の報道が流れ込んでくる。
気仙沼、陸前高田などの深夜の情景など。海面を炎がなめる様子は凄惨だった。プロパンガスのボンベや、漁港に備え付けられた燃油のタンクが燃え、爆発する様子を見るのはつらかった。
自分の郷里でも、自分の卒業した中学校が避難所になっており、皆寒さで震えているようだった。
実家に電話したが、停電しているとのこと。
不安・心配は募る。
その一方で、東京電力福島第一原子力発電所の報道も断続的であるが、引き続き流れてきていた。
そうやって、震災の一日目の夜は深まり、朝を迎えつつあった。
今年もよろしくお願いいたします [雑記]
本務とはちょっと違うけどね。
しかし、やることは少しずつ見えてる。
昨年は、色々な人と出会えた。
だから、今年は随分と進めるような気がするよ。
「色々な人」は、あなたです。
よろしくお願いします。
昨年から今にかけてのこと:4 [東日本大震災]
陸前高田は、湾が大半を占めているのではないかと思ったのだが、しかし、その湾全体が、何が燃えているのか、そのすべてを火に覆い尽くされている。
(承前)
イントラネットでは、立て続けにメールが入ってくるが、あまり要領を得ない。
従って、何も事情はわからない。
課長は、ばたばたと出入りして、その都度課内の会議。会議と言うより、課長から招集がかかり政府全体の対応が知らされるが、これもまた全く要領を得ない。
その間、東北沿岸の被害が次から次に、NHKの報道から流れてくる。
津波で流されたプロパンガスやガスタンクに火がついて、リアス式海岸の湾一面に火が廻っている。気仙沼・大槌・陸前高田。
ただ、それをテレビの画面で見るしかない自分が情けなかった。
同僚の多くは、帰宅を始めていた。こういう事態の時には居残った方がいいと思ったが、小さい子供など家族がいるのであれば、その心情は充分にわかる。
たくさんの人が、電車不通の中、歩いて帰ろうとしていて、歩道が「大渋滞」になっている模様も報道されていた。そんな中、沿道の飲食店などが、食べ物や飲み物を提供したり、手洗いを使ってもらったりしていた。自分のオフィスも緊急避難所になっていたようだ。
夜も更けてきて、何とか握り飯を腹に収め、今時(こんじ)の地震と津波で、自分の勤務先で何ができるかをネットにあげることしか考えられなかった。
夜、大きな余震があった。長野だったか。そのほかにも、度重なる余震があり、その都度、皆不安の声を上げていた。
次々と、同僚が帰る中、課長からとどまるように依頼があったので、とどまっていた。
その間、ネットのサービスで、どの路線がどういう状況にあるのかを課内に情報提供したりしていた。
東京電力福島原子力発電所のことは、なんとなく、気になっていた。
夜になって、とうとう、東電福島のニュースが入ってきた。
昨年から今にかけてのこと:3 [東日本大震災]
そうやって、地震発生から1時間超が過ぎた。
(承前)
地震発生から、しばらく時間が経ち、北関東から東北地方にかけて、沿岸部の津波の被害が伝えられるようになってくる。
記憶している限りでは、大洗から始まった。
次々と、津波の映像が流れてくる。
名取。
どんどん、どんどん、名取川をさかのぼってくる黒い水。
NHKのアナウンサーは、盛んに実況しているけれども、私が覚えているのは、ただただ、野放図に川をさかのぼり、田畑を飲み込み、家々を崩していく何か訳のわからないもののことだった。
今でも覚えているのは、課内で皆が、ただただ立ちすくみテレビの画面を見つめている、課員の姿だった。
何も、言葉を発することが出来ない。
ただ、立ち尽くして、テレビの画面を見つめるだけ。
けれど、そのとき、皆、今時の震災・津波による被害が、ただならぬ事になるであろうことを覚悟していたと思う。
そのすぐ後、釜石の漁港が津波に呑まれる姿を見た。
釜石には、義兄が赴任しており、これはだめかもしれぬと思い定めた。
義兄は、釜石で官庁の要職に就いており、その事務所は釜石港のすぐそばにあったはず。その事務所は、テレビの画面からは、うかがい知れなかったが、次々と漁船が乗り上げる、そのすぐそばにあるのは確か。
暗然たる思いでその光景を見ていた。
しかし、次いで、自分の故郷の、自宅からすぐそばの漁港が波に呑まれ、漁船が次々と漁港に乗り上げる様子を見た。
実家は、自分が物心つく頃から地震があり、津波もあったが、大きな地震があったときも、それほどの被害はなかった。
しかし、このときばかりは、だめかもしれぬと、思った。
それほど、名取の津波の光景には衝撃を受けたし、釜石の津波もひどいものだった。
実家の光景のすぐ後に、陸前高田の様子が映し出された。
もう日も暮れて、真っ暗な陸前高田は、しかし、火に覆われていた。
陸前高田は、湾が大半を占めているのではないかと思ったのだが、しかし、その湾全体が、何が燃えているのか、そのすべてを火に覆い尽くされている。
南無三。
昨年から今にかけてのこと:2 [東日本大震災]
テレビ報道では、九段会館の天井が落ちて死者が出ている模様、という報道があった。
それから、長い夜が始まった。
(承前)
すると、課長室から課長が出てきて、「おいおい、テレコムセンターが火事だぞ。」と。
課内の、つけっぱなしのテレビを見上げると見覚えのあるビルから煙が上がっている光景が映し出されている。
都内でも、火事などの被害が出ている模様。
テレコムセンターの火事は、後に、近隣のビルの火災だとわかるのだが、そのときは衝撃だった。
しかし、もちろんそれだけではおさまらない。
市原のガスタンク群の火事の様子が中継され始める。
それを見たとき、この地震はただ事ではないと思った。
「燃え尽きるまで、この火事おさまらないな。」と。
しかし、それらの被害の映像を、何時に見たのか、今ではすっかり覚えていない。
次から次に、途切れることなく、各地の被害の映像が流れてきて、ただただ唖然とするばかりだった。
相変わらず、身内や実家とは連絡が取れない。
連れ合いは仕事先で、どういう状況で地震に遭ったのかわからない。
実家は、昔から地震も多く津波もあったが、それほど大きな被害に見舞われることはなかった。しかし、心配。
舞浜の液状化の映像なども流れてきて、いよいよ被害は東日本全体に広がっていることがわかってきた。
課内の会議が、「窓際」(補佐・企画官他)招集され、対策本部の状況など、課長から説明があるが、まだ初動で、ほとんど動きがわからない。
対策本部が立ち上げられたと言うことぐらい。
そうやって、地震発生から1時間超が過ぎた。
昨年から今にかけてのこと:1 [東日本大震災]
ブログはすっかりご無沙汰になってしまったが、再開。
昨年の、地震のことを備忘として記すことにする。
地震発生の前のことは覚えていない。
ちょうど、国会が開いていて、決算委員会(?)をやっていたはず。
「窓際」の補佐達が課長室に呼び込みのため、入っていたのを覚えている。
何だか「やれやれ」という表情で補佐達が出てきたときに地震が起こった。
地震の前に、緊急地震速報も、テレビや課員の携帯電話で鳴ったことを覚えている。
最初は、皆、「あらら、地震だぁ。」などと言っていた。
私も、席にいて様子をうかがっていたのだが、次第に地震が強くなってきた。
たまらず、机の下に潜り込んだ。
席の後ろの窓際に積んでいた書類が落ちてきても、まだ揺れはおさまらぬ。
確か、この建物はまだ免震工事の最中だったのだなぁ、ということを思い出しながら、そのとき「このまんま死んでしまうかもなぁ。」と思ったことを覚えている。はっきりとして、死の覚悟。
数分(?)経って、ようやく揺れがおさまり、机の下から顔を出したら、テレビ(NHK)は、地震対応の画面に切り替わっていた。
職員の一人は、部屋から近くの大きな公園に逃げ出し、皆が笑っていたが、そのうちテレビ報道によって、事はそれほど簡単なことではないことがわかってくる。
地震直後、どういう報道がなされていたかははっきり覚えていない。
しばらく経ってから、町田にある商業施設の駐車場の外階段が崩落して、死者が出たという報道が一番最初の記憶。
もちろん、連れ合いや実家への電話もつながらない。
携帯電話のメールも、届かない。
その一方で、地震に対応して何をするべきか、メモを作り始めた。
ちらりと、東京電力福島第一・第二原子力発電所、東北電力女川原子力発電所のことを考えた。
しかし、あれほどまでの被害を引き起こすなどとは、全く、全く思っていなかった。
しかし、「地震に対応して何をするべきかのメモ」とは、いったい何を書いたのか、そのファイルはなく、記憶が全くない。
地震後、課長は緊急の会議に呼ばれ、私と言えば、隣の「島」の総務半の職員と、食料の買い出しが必要かどうか相談したりしていたが、基本的には、NHKの報道を観ているしかすることがなかった。
省内でのメールはそれなりにできたが、基本的に地震に関連する指示などは特段なかったように記憶している。
そのうち、課長が幹部会議から戻ってきて、打ち合わせ。
とはいえ、緊急対策本部ができたこと(その頃の所属先と、その上の国全体のレベル)が報告されたぐらい。
テレビ報道では、九段会館の天井が落ちて死者が出ている模様、という報道があった。
それから、長い夜が始まった。
三日目 [雑記]
三年前の「三日目」は自分はどう過ごしていたのだろう?
とにかく、くたくた。着任日に残業というのもねぇ。
昨日は昨日で、昼飯無しで仕事していたし。
諸々、どうなるかねぇ・・・。
フェイスブックで、前職同僚とディスカッション。
それから、放射線講演会の「次」をどうするかいろいろ考える。
妙案は、なかなか。
「事務局」のモチベーションも、どう保つか・・・。
色々なことが、あるいは、全てのことが悩ましい。
first day [雑記]
朝、普通通りに出勤。
台風一過で、地下鉄の出口から出て仰ぎ見る空が青い。
朝一番目で、辞令を受領。
感極まるかと思ったが、それほどではなかった。
その後は、仕事したり後片付けしたり。
その間、色々と挨拶回りなど。
十分ではないが、色々な方にご挨拶できた。
昼飯は、何だかのどを通らず。
午後一番で、最後の撤収(荷物の片付け)をして、新職場へ。
PC・メール・印刷などなど、ばたばたしつつ、最低限仕事環境の確保。
と思ったら、力仕事一件。
結句、一人のこって残業。
初出勤が、初産業。まぁ、いいのだが。
さて、どうなるか。
Last day [雑記]
最終日、どう過ごしたのか、あまり覚えておらず。
普通に出勤して、はて・・・。
午前中は、なにやら取りかかっている仕事の書類作ったりしていたような。
昼飯、食ったかな?
午後は、取りかかっている仕事の打ち合わせがあり、同僚を訪ねてきた京大の准教授と話をしたり。
そうだそうだ。避難している住民の帰還に関して、多変量解析を使ってどうにかならないか話をしたのであった。
准教授は、先日の放射線講演会の事務局を一緒にやった方の奥様でした。
最後の最後に、お話しできたのは僥倖だった。短い間だったけれども、実のある話ができた。
その後、准教授の御夫君に、ご挨拶に。ちょっと、感極まってワタクシとしてはあまりちゃんと話ができず。
戻って、メールあれこれ。その前後、電話・ご来訪などなど、ご挨拶頂戴して誠に忝ない。
最後の最後、取りかかっているSNS関係の打ち合わせ一件。
ぐずぐずと仕事して、オシマイ。
歓送会に。
その後、近所のバーへ。
さてさて。 [雑記]
あと二日を残す、今日(昨日)は、相も変わらずばたばた。
八月に異動してきた同僚に、うまい具合に引っかき回されている。
SNSを導入するということで、同僚はかかりっきり。
残念ながら、その開設を見ることはないだろうが、 首尾上々を祈り、残りの時間を手伝うしかない。
忙中閑ありで、廊下を歩いていたりすると、寂しさはいや増しにます。
加えて、元職場から今更ながらの連絡があり、帰任先が判明。
げんなり。
しかし、そこに、楽しさを見つけていくしかないだろう。
夜なべ仕事は、同僚などが執務室にいて、着任前に世話になった方々にメールなど。
謝辞のお言葉など頂き、誠に忝なし。
さて、あと一日どうなるか。
連続講演会終了 [雑記]
本日26日で、放射線に関する連続講演会終了。
三回目の講演会は、科学ライターの松永和紀さん。
今日、うちにいらっしゃるようなことをおっしゃっていたが、昼飯を食っていたときに、いらした。
焦る。
軽く立ち話をして、今夜の講演会についてよろしくお願いする。
資料の準備して、会場へ。
圧倒的に、ありがたい一日となった。
最後の懇親会での挨拶は思わずぐっと来たが・・・。
残りは後刻。疲れました。
さて、あと四日。 [お仕事]
あれ、週初めだが、予定があった。
官邸のIT広報ワークショップ。fbについて。
終了後、審議官とお話をさせて頂く。ちょっとしみじみ。
その前後は、諸々、ばたばたと仕事のみ。
その後、歓送会。って、なぜ、俺が幹事なのか?
今日もおいしかった。本当は、歓送されるはずなのだが、なぜか幹事していたぜ.まぁ、そんなことは、些末。色々な話を聞けて、大変楽しゅうございました。
その後新宿にて、同僚(というのもおこがましいが)と、しばらく話を。
これまた、色々と詰まった話で、ろくに応接できずに、誠に申し訳なく思いつつお相手させて頂く。
何も碌にお話をできませんでしたが、ワタクシとしては、大変興味深く、よろしゅうございました。多謝です。
あと、一回ほどなど思うのですがね。今月は、30日まであります。
残り5日 [お仕事]
残すところ、あと5日。
長いようで短い三年間だった。
金曜日の歓送会。挨拶で、思わず知らず、ぐっと詰まってしまったのはご愛敬。
何ができたのか、できなかったのか。考えをまとめる時間があるのか。
業務ではないが、最後の最後に、放射線連続講演会を開催できたのは、望外の喜び。
勿論自分一人でできたわけではなく、組織の壁を越えた協力があったからこそ。
そして、もちろん、講演をご快諾頂いた、学習院大学・早野晴明先生、東京大学大学院・早野龍五先生、科学ライター・松永和紀さん、そして最終回のコーディーネーターを引き受けたくださった、斗ヶ沢秀俊さんには感謝しても足りない。
残りの五日間、水曜日を除くと特段の予定もなく、少し考え事をしないと。
長いようで、あっという間の三年間だった。
みなとみらいのマーラー・ツィクルス [コンサート]
先日は、芸劇に行き、その後オフィスに行って、諸々と片付け。
その後、美容院。
さらに、その後は最近お気に入りの、居酒屋に。
その居酒屋、ご亭主一人でやってらっしゃるのだが、調度は勿論料理もいちいち、センスがよい。
通うのにちょうど良いので、繁くというのではないが通っている。
特段、何を話すわけではないが、気分がよい。カウンターの高さと奥行きも良いのだろう。
インバルのマーラーツィクルス・シンフォニー第一番 [コンサート]
任期切れも近くなり、ついつい、予習があまりできないまま、本日。
午前中は家で仕事。「卒論」はなかなかままならず。
とはいえ、随分と早くに出たなぁ。
リニューアルなった、東京芸術劇場へ。
しかし・・・。
リニューアルの意味が全然無いような気がする。
あの、オカシナ大エスカレーターはなくなったけれども、ほぼそれだけという感じ。
バーコーナーも、変わりなし。
「リニューアルだからしょうがない。」という意見もあるかもしれないが、リニューアルしたからこそ、印象を一新しなければ意味がない(続・かもしれぬ)
今回は、芸劇初の(?)三階席。
そのせいもあろうが、随分と軽いマーラーだったような気がする。
しかし、楽章を重ねるうちに随分と、マーラーらしく(?)なったような気がする。
これで、残り二回のシンフォニー一番を聴く気が横溢して参りました。
本日は、どのパートも、それぞれ平均点。
Hr.の一発目は、まぁしょうが無いのだろう。
いざ、みなとみらいへ。
三連休 [雑記]
連休中は、「卒論」書きと、こ~ほ~誌の原稿チェック。
しかし、こ~ほ~誌は、編集協力の編プロに本当に悩まされた。
本当に「編集プロダクション」なのか?
あと、連休中は、18日の講演会第2回の準備。 しかし、マーラーツィクルス(シンフォニー1番)のコンサートが2回ある(池袋と横浜)。予習は十分とはいえないが。
さて、「卒論」。その前に、その間に明日の予習かのぉ。
明日は、前半に(なぜか)ベートーヴェンのピアノコンチェルトなのであった。どうせなら、全部「さすらう若人の歌」にすれば良かったのに・・・。ホール(池袋)として独自性を出したかったか?
「卒論」つまりは、これまでのことを記録して、残しておくと言うことなのだが、いざ書こうと思うと、大げさながら万感胸に迫り、筆が進まない。
なんとも、ねぇ。
その他備忘 [お仕事]
昨日は、インターンシップできている関西方面の大学院生のお相手。
色々と悩みが多いと思うが、しっかり考えて方向を見定めて欲しい。
第二回講演会が、連休明けに迫り、準備をしなければならないのだが、本務が忙しくなかなか。
第二回は、東京大学大学院の早野先生。
物理を学んでいる先生は、物理法則という人智ではいかんともしがたい現象を相手にしているためか、非常に冷静、と言うか、「超」合理的。
だから、事故後の事態の推移も、純粋に客観的・冷静に受けとめて、いらしたのだと思う。
第一回の資料は、田崎先生のサイトで公開されている。また、田崎先生が公開なさっていた資料は、近々、書籍として出版されるらしい。「やっかいな放射線とつきあうための基礎知識」。これは、多くの人に読んで欲しい書籍。
「卒論」はかどらず。
明日には、「完成度の高いドラフト」として、書き上げねば。
今日も打ち合わせ頻々であった。残された時間は少ないが、できることをできるだけやるしかない。
コンサートもあるのだが、なかなか、予習含めておんがくモードにならず。
困ったもんである。
優秀な後輩と [お仕事]
先日は、「同業他社」というより、いわゆる「持ち株会社」?のアドバイザーの方にヒアリング。
フェイスブック解説をもくろんでおり、そのアドバイスを頂きに。
本音を言うと、その方、まったく知らなかった。しかし、ブログ界では有名な方らしい。
確かに、 ご指摘のいちいちがごもっともで腑に落ちる。
今朝は、その議事メモ作り。
日にちは前後するが、昨日は、企業CSR関連のNPO団体に、ご挨拶に。
昨年震災後、「食べて応援しよう!」の関連でお世話になった団体。事務局の方にご挨拶申し上げつつ、昨年お互いに大変だったことについて、お互いに回顧し、その後の報告など。
昨年の今頃も、まだ、必死に色々と動いていたことを思うと、感慨深い。
その後、松陰神社前の居酒屋へ。
まぁ、少しはほっと一息も良いでしょう、ということで。
ここの料理は、素晴らしくセンスがよい。
毎回、感心する。
第2回目講演会 [お仕事]
一回目の田崎先生の講演会は、それなりの首尾だったか。
残り少なく、ころころと、立ち働く。
余命少ないなか、これほど忙しいとは。
関西の大学の院生のインターンシップのお相手など。
その後、外出して、昨年「食べて応援」でお世話になった方に、離任のご挨拶など。
過分なお言葉l、忝なし。
一瞬、帰ろうかと思ったが(そりゃそうさ、これまで過ごして来たところには帰りたい)、
我慢して(?)、三軒茶屋へ。
乗り換えて、居酒屋へ。
色々と来し方などを考えて、帰宅。
沈思黙考も、まぁいいかと。