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帰任してから各地を訪れて:番外1 [東日本大震災]

 昨年、元職にいる間、「各府省庁有志による放射線連続講演会」を開催した。
 第一回は学習院大学の田崎晴明先生、第二回は東京大学大学院の早野龍五先生、第三回は科学ライターで「Foodom.net」主催の松永和紀さん。
 このことについては、機会を見つけてきちんと書きたいし、記録として残しておきたい。
 いずれの講演会も、開催して良かったと思っている。
 
 その後、今年になって、筑波大学の五十嵐先生をお招きした。

 しかし、このところ今まで続けてきた自分自身の「ドライブ」がどれほど維持できているか、いささか心許ない。
 しかし、続けることは必要だとは思っている。

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帰任してから各地を訪れて:2 [東日本大震災]

 帰任後、始めて訪れたのは、岩手県大槌。
 その前に、ツィッターで「大槌に行きます。」とつぶやいたら、「ご案内しますよ。」という方がいらして、お言葉に甘えることに。
 ただ、ちょいとメンタルヘルス的に「知らない乗り物に長時間乗っているのがオソロシイ」という感じなのが不安であった。まぁ、薬を常時飲むほどではないのだが。
 ということで、新花巻から釜石までの路線図(今自分がどこを走っていて何時にどこに着くのかを把握したい)、釜石から大槌までのバスの路線図(右に同じ)を準備して赴いた。
 無事に乗り継いで、いよいよ大槌へ。
 吉里吉里のバス停に、Sさんが待っていてくださった。
 そのまま、色々とご案内頂き、ホテルそばの道の駅・バス停で下ろして頂く。
 が・・・。ホテルは、道の駅のそばと聞いていたのだが、遠い遠い。該当すらない道を十分近く歩いてようやく着いたのであった。いやはや、怖かった。
 そのホテルは、昨年夏過ぎに開業したばかりで、ある意味で震災復興・復興のために大槌に来ている人を相手にしているようだが、きれいでなかなかよろしい。
 次の日の朝食もまことによろしい。
 
 Sさんは、昼過ぎまでパソコン教室の先生をやっていらっしゃると言うことで、昼過ぎに落ち合うことに。
 その2時間ほど前に、大槌の中心街に出た。
 中心街といっても、なにもない。全く。
 行くといっても、足の便は1時間に一度のバスしかない。
 
 ちょっと、書き継ぐのが苦しいので、これは続く。

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昨年から今にかけてのこと:8 [東日本大震災]

 明けて3月12日、朝方帰ってきても、とても眠ることなどできぬ。 
 帰ってきてすぐに、NHKを見る。
 ぼーっとしながら、見ていると、地震・津波の他に、東京電力福島第一原子力発電所の事故のニュースの比重が高くなっていた。
 
 東電福島は、仕事でもよく行っていたところだった。
 しかし、ニュースの報道内容から、どうにもこうにも、深刻な状況になるとは思えなかった。
 もちろん、今から考えれば全く以て浅はかな、馬鹿としか言いようのない判断であったのだが。
 実際に、三時半過ぎに一号機で水素爆発があった。
 それとて、楽観していたのだから、もうどうしようもないとしかいいようがない。
 
 今から思えば、自分も「外縁部」とはいえ、原子力ムラの一員だったのだろうとおもう。
 さらに、その頃から、東京大学大学院の早野龍五先生のツィッターをフォローしていたにもかかわらず、その意味をきちんと理解できていなかったのも、本当に阿呆と言うしかない。

 時々刻々と変化する、東京電力福島第一原子力発電所の事から飯も食わず、目が離せないまま12日が過ぎていった。

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帰任してから各地を訪れて:1 [東日本大震災]

 震災直後の話とは別に昨年10月に現職に帰任してからのことを書く。
 
 帰任したのは、基の会社の別部署。違和感を持ちつつもまぁなんとか仕事をこなしていた。
 そこで気になったのが、岩手県大槌町のこと。

 昨年3月11日の前後に、一昨年の年末年始に大槌町の仮設住宅の人たちがどう過ごしたかを取り上げた番組があり、それを見ていた。
 ・結婚して子どもを産み、その後離婚して帰郷しそこで、お子さんとお母さんをなくし、仮設住宅でお父さんと二人きりで暮らしている女性。
 ・震災で一人きりになり、仮設でも一人きりで、酒を頼りに暮らし、帰省した息子さんに「俺は、これで死ぬしかないだろう。」という男性。
 ・同じく仮設で一人きりで暮らし、仮設での集まりになど人の交わりにもあまり関心のないような女性。
 ・震災前は、人の面倒をよく見て料理も得意だったのが、仮設では料理ができなくなった女性。「逃げないでそのままで行ってしまった方が良かったかな。」とか「(生きていたって)役に立たないんだもの。」という。
 
 気になって気になってしょうがなかった。
 そこで、昨年帰任後11月、思い立って大槌に行くことにしたのだ。
 もちろん、彼女彼らに会おうという気があって行ったわけではない。
 ただただ、彼の地に行こうと思った。 
 そうこうするうちに、ツィッターで「大槌に行こうと思っています。」というツィートに対応して「ごあんないします。」という方がいらして、幸いにもご案内ただいた。
 
 実際に訪問したことは、また後で書く。
 けれども、気になる。
 その番組(NHKのスペシャル)は、あれから何度も何度も見返している。
 見る度に、どうにかならぬものかといつもいつもそう思う。
  

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ブログ再々開 [東日本大震災]

 一月以来、途絶していたブログである。
 フェイスブック・ツィッターにかまけていた。
 しかし、自由にそして思いのままの長さと内容の文章を書けるのは、やはりブログなのだろうなぁ、ということで、再開することにした。

 昨年11月には、岩手県大槌町に行き、12月には石巻に(そしてそこで大きな地震に遭った)。
 年が明けて、1月には岩手県久慈市に行き、大雪の時には郡山に行った。
 その後、3月には福島県伊達市保原で、ICRPのダイアローグセミナーに。
 四月最初には、いわき市へ。
 さらに、黄金週間には、再び岩手県大槌町(山田町・吉里吉里)に行き、さらに久慈に行った。

 色々と思うことがあったし、昨年九月の「放射線連続講演会」以降色々なつながりができた。
 その辺を書いて行ければと思う。

 

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昨年から今にかけてのこと:7 [東日本大震災]

もう少しで夜が明けようかと言うときに、課長より「電車も動いているようだし、帰って少し休んでください。」とお言葉を頂き、帰ることにした。

幸い、使っている路線、二線は動いていた。

(承前)

やはり、気分が高ぶっていたのであろう。

何を考えたか、途中で降りて、行きつけのレストラン&バーに行っていた。

まぁ、事前に電話をしていたのだが。

地震で酒瓶が倒れて大変だったとか。

行ったときは、もう朝方5時近かったので、片付いていたようだが。

店には、客は一人だけ。JRが運転を止めて帰れない八王子(立川?)にお住まいの方だったか。

随分と不如意のようだったが、さすがに立川(八王子)では、送っていくのもままならず。

 

小一時間、話をして地下鉄などを乗り継いで帰宅したときには、もう夜も開けていた。

 

帰ってみて、自宅の内部を確認してみたが、基本的に何も被害は無し。

わずかに、本棚の本が少し落ちていたくらい。

食器なども、被害は全くなし。

帰宅してから、ずっとNHKをつけてテレビを見ていたが、基本的に東京電力福島第一原子力発電所の事故の件に終始。

勿論、地震・津波の被害の様子も報じられるが。

しかし、東電福島のことが気にかかる。

今から思うと、浅はかなことだが、スクラムしたということが報じられていたから、さほど心配はしていなかった。

しかし、このとき既に燃料溶融が始まっていたとは。


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昨年から今年にかけてのこと:6 [東日本大震災]

その一方で、東京電力福島第一原子力発電所の報道も断続的であるが、引き続き流れてきていた。
そうやって、震災の一日目の夜は深まり、朝を迎えつつあった。 

(承前)

深夜の飯は、どうしていたか?忘れた。夕飯は、何となく握り飯を食った記憶はある。
深夜の飯は、たぶん、庶務班の女性が、地下の食堂から調達してきたのではなかったか?しかし、それは、二日以降の記憶かもしれない。

いつもは、移動に伴う歓送会や歓迎会で食べていた、地下の第一食堂の焼きそばや野菜炒めを、皆で何となく黙々と食べていた記憶しかない。その間も、メールは次々に入ってくる、テレビはかまびすしい。

途中、長野で大きい余震があった。隣の補佐は、長野出身。しかし、余り動ずる様子もない。

その後も、メール頻々。打ち合わせも散発的に行われるが、余り様子は分からない。

途中、交通機関が動き始めたという知らせも入り、「ジョルダンライブ」の状況をプリントアウトして、課内に張り出したりしていた。これは、課内で随分助けてもらったと、後で言われた。そのあとも。

基本的にやることもなく、ただひたすら、東京電力福島第一原子力発電所の事故の情報を集めていた。
後に、講演会で話をして頂く、東京大学大学院の早野先生のツィートを「発見」するのはもう少し後の話。

今になって悔やまれるのは、ソーシャルをその時点でもっと活用していれば佳かったということ。

自分の職場でも、帰宅難民の方々を受け入れていたし、何よりも早野先生のツィートをもっと真剣にウォッチしていれば良かった。

後悔先に立たずだが、痛恨の念に堪えない。

深夜も過ぎて、基本的にはNHKの番組を見ているしかない。
気仙沼の、湾の火災はいっこうにおさまならない。

大槌も、酷い状況だというのは分かるが、どうしようもない。

ただ、画面を見ているしかない。

もう少しで夜が明けようかと言うときに、課長より「電車も動いているようだし、帰って少し休んでください。」とお言葉を頂き、帰ることにした。

幸い、使っている路線、二線は動いていた。


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昨年から今にかけてのこと:5 [東日本大震災]

東京電力福島原子力発電所のことは、なんとなく、気になっていた。

夜になって、とうとう、東電福島のニュースが入ってきた。

(承前)

今、色々と本を読むと、11日の夜から東京電力福島第一原子力発電所は、深刻な状況に至っていたことが分かる。しかし、当日夜はとにかく、地震と津波の影響に皆の目が向いていたように思う。もちろん、私もそうだ。

ブログでも、ツィッターでもフェイスブックでも、「フクシマ」などとは表記しない。「フクシマ」と表記することに、何の意味があるのかと思っている。ましてや「Fukushima」とか。何を意図しているのか?福島は福島だ。もちろん、宮城は宮城だ。不可思議な(不愉快な)レトリックだと思っている。

 

正直な話、自分自身、東北の(もちろん、一括りにはできないが)の被害について強い気持ちを寄せるようになったのは、自分の郷里が被害を受けつつも、ほんの一週間も経たずにニュースから消え失せてしまったことがあるが、震災後すぐの全国紙各紙で「がんばっぺ福島」などと、賢しらに方言を使った見出し・記事が続いたことにある。

このことは、後に書く。

とにかく、11日に深夜から東京電力福島第一原子力発電所の危機的な状況が報じられるようになる。

しかし、自分自身、「原発ムラ」の(片隅の)一員であったこともあり、正直な話、楽観していた。何とか、収束するだろうと思っていた。

11日深夜、多くの課員は帰っていたが、課長は相変わらず課長室を出たり入ったり。そして、窓際(補佐)を集めて情報共有が続いた。

その間、東電のニュースがウェイトを増しつつも、福島・宮城・岩手沿岸の津波被害の報道が流れ込んでくる。

気仙沼、陸前高田などの深夜の情景など。海面を炎がなめる様子は凄惨だった。プロパンガスのボンベや、漁港に備え付けられた燃油のタンクが燃え、爆発する様子を見るのはつらかった。

自分の郷里でも、自分の卒業した中学校が避難所になっており、皆寒さで震えているようだった。

実家に電話したが、停電しているとのこと。

不安・心配は募る。

その一方で、東京電力福島第一原子力発電所の報道も断続的であるが、引き続き流れてきていた。
そうやって、震災の一日目の夜は深まり、朝を迎えつつあった。


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昨年から今にかけてのこと:4 [東日本大震災]

陸前高田は、湾が大半を占めているのではないかと思ったのだが、しかし、その湾全体が、何が燃えているのか、そのすべてを火に覆い尽くされている。

(承前)

イントラネットでは、立て続けにメールが入ってくるが、あまり要領を得ない。

従って、何も事情はわからない。

課長は、ばたばたと出入りして、その都度課内の会議。会議と言うより、課長から招集がかかり政府全体の対応が知らされるが、これもまた全く要領を得ない。

その間、東北沿岸の被害が次から次に、NHKの報道から流れてくる。
津波で流されたプロパンガスやガスタンクに火がついて、リアス式海岸の湾一面に火が廻っている。気仙沼・大槌・陸前高田。

ただ、それをテレビの画面で見るしかない自分が情けなかった。

同僚の多くは、帰宅を始めていた。こういう事態の時には居残った方がいいと思ったが、小さい子供など家族がいるのであれば、その心情は充分にわかる。
たくさんの人が、電車不通の中、歩いて帰ろうとしていて、歩道が「大渋滞」になっている模様も報道されていた。そんな中、沿道の飲食店などが、食べ物や飲み物を提供したり、手洗いを使ってもらったりしていた。自分のオフィスも緊急避難所になっていたようだ。

夜も更けてきて、何とか握り飯を腹に収め、今時(こんじ)の地震と津波で、自分の勤務先で何ができるかをネットにあげることしか考えられなかった。

夜、大きな余震があった。長野だったか。そのほかにも、度重なる余震があり、その都度、皆不安の声を上げていた。

次々と、同僚が帰る中、課長からとどまるように依頼があったので、とどまっていた。

その間、ネットのサービスで、どの路線がどういう状況にあるのかを課内に情報提供したりしていた。

東京電力福島原子力発電所のことは、なんとなく、気になっていた。

夜になって、とうとう、東電福島のニュースが入ってきた。


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昨年から今にかけてのこと:3 [東日本大震災]

そうやって、地震発生から1時間超が過ぎた。

 

(承前)

地震発生から、しばらく時間が経ち、北関東から東北地方にかけて、沿岸部の津波の被害が伝えられるようになってくる。

記憶している限りでは、大洗から始まった。

次々と、津波の映像が流れてくる。

 

名取。

どんどん、どんどん、名取川をさかのぼってくる黒い水。

NHKのアナウンサーは、盛んに実況しているけれども、私が覚えているのは、ただただ、野放図に川をさかのぼり、田畑を飲み込み、家々を崩していく何か訳のわからないもののことだった。

今でも覚えているのは、課内で皆が、ただただ立ちすくみテレビの画面を見つめている、課員の姿だった。

何も、言葉を発することが出来ない。

ただ、立ち尽くして、テレビの画面を見つめるだけ。

 

けれど、そのとき、皆、今時の震災・津波による被害が、ただならぬ事になるであろうことを覚悟していたと思う。

そのすぐ後、釜石の漁港が津波に呑まれる姿を見た。

釜石には、義兄が赴任しており、これはだめかもしれぬと思い定めた。

義兄は、釜石で官庁の要職に就いており、その事務所は釜石港のすぐそばにあったはず。その事務所は、テレビの画面からは、うかがい知れなかったが、次々と漁船が乗り上げる、そのすぐそばにあるのは確か。
暗然たる思いでその光景を見ていた。

 

しかし、次いで、自分の故郷の、自宅からすぐそばの漁港が波に呑まれ、漁船が次々と漁港に乗り上げる様子を見た。

実家は、自分が物心つく頃から地震があり、津波もあったが、大きな地震があったときも、それほどの被害はなかった。

しかし、このときばかりは、だめかもしれぬと、思った。

それほど、名取の津波の光景には衝撃を受けたし、釜石の津波もひどいものだった。

実家の光景のすぐ後に、陸前高田の様子が映し出された。

もう日も暮れて、真っ暗な陸前高田は、しかし、火に覆われていた。

陸前高田は、湾が大半を占めているのではないかと思ったのだが、しかし、その湾全体が、何が燃えているのか、そのすべてを火に覆い尽くされている。

南無三。


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昨年から今にかけてのこと:2 [東日本大震災]

テレビ報道では、九段会館の天井が落ちて死者が出ている模様、という報道があった。

それから、長い夜が始まった。

 

(承前)

 

すると、課長室から課長が出てきて、「おいおい、テレコムセンターが火事だぞ。」と。

課内の、つけっぱなしのテレビを見上げると見覚えのあるビルから煙が上がっている光景が映し出されている。

都内でも、火事などの被害が出ている模様。

テレコムセンターの火事は、後に、近隣のビルの火災だとわかるのだが、そのときは衝撃だった。

しかし、もちろんそれだけではおさまらない。

市原のガスタンク群の火事の様子が中継され始める。

それを見たとき、この地震はただ事ではないと思った。

「燃え尽きるまで、この火事おさまらないな。」と。

しかし、それらの被害の映像を、何時に見たのか、今ではすっかり覚えていない。

次から次に、途切れることなく、各地の被害の映像が流れてきて、ただただ唖然とするばかりだった。

 

相変わらず、身内や実家とは連絡が取れない。

連れ合いは仕事先で、どういう状況で地震に遭ったのかわからない。

実家は、昔から地震も多く津波もあったが、それほど大きな被害に見舞われることはなかった。しかし、心配。

 

舞浜の液状化の映像なども流れてきて、いよいよ被害は東日本全体に広がっていることがわかってきた。

課内の会議が、「窓際」(補佐・企画官他)招集され、対策本部の状況など、課長から説明があるが、まだ初動で、ほとんど動きがわからない。

対策本部が立ち上げられたと言うことぐらい。

そうやって、地震発生から1時間超が過ぎた。


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昨年から今にかけてのこと:1 [東日本大震災]

ブログはすっかりご無沙汰になってしまったが、再開。


昨年の、地震のことを備忘として記すことにする。

 

地震発生の前のことは覚えていない。

ちょうど、国会が開いていて、決算委員会(?)をやっていたはず。

「窓際」の補佐達が課長室に呼び込みのため、入っていたのを覚えている。

何だか「やれやれ」という表情で補佐達が出てきたときに地震が起こった。

地震の前に、緊急地震速報も、テレビや課員の携帯電話で鳴ったことを覚えている。

最初は、皆、「あらら、地震だぁ。」などと言っていた。

私も、席にいて様子をうかがっていたのだが、次第に地震が強くなってきた。

たまらず、机の下に潜り込んだ。

席の後ろの窓際に積んでいた書類が落ちてきても、まだ揺れはおさまらぬ。

確か、この建物はまだ免震工事の最中だったのだなぁ、ということを思い出しながら、そのとき「このまんま死んでしまうかもなぁ。」と思ったことを覚えている。はっきりとして、死の覚悟。

数分(?)経って、ようやく揺れがおさまり、机の下から顔を出したら、テレビ(NHK)は、地震対応の画面に切り替わっていた。

職員の一人は、部屋から近くの大きな公園に逃げ出し、皆が笑っていたが、そのうちテレビ報道によって、事はそれほど簡単なことではないことがわかってくる。

 

地震直後、どういう報道がなされていたかははっきり覚えていない。

しばらく経ってから、町田にある商業施設の駐車場の外階段が崩落して、死者が出たという報道が一番最初の記憶。

 

もちろん、連れ合いや実家への電話もつながらない。

携帯電話のメールも、届かない。

その一方で、地震に対応して何をするべきか、メモを作り始めた。

ちらりと、東京電力福島第一・第二原子力発電所、東北電力女川原子力発電所のことを考えた。

しかし、あれほどまでの被害を引き起こすなどとは、全く、全く思っていなかった。

しかし、「地震に対応して何をするべきかのメモ」とは、いったい何を書いたのか、そのファイルはなく、記憶が全くない。

 

地震後、課長は緊急の会議に呼ばれ、私と言えば、隣の「島」の総務半の職員と、食料の買い出しが必要かどうか相談したりしていたが、基本的には、NHKの報道を観ているしかすることがなかった。

省内でのメールはそれなりにできたが、基本的に地震に関連する指示などは特段なかったように記憶している。

そのうち、課長が幹部会議から戻ってきて、打ち合わせ。

とはいえ、緊急対策本部ができたこと(その頃の所属先と、その上の国全体のレベル)が報告されたぐらい。

 

テレビ報道では、九段会館の天井が落ちて死者が出ている模様、という報道があった。

それから、長い夜が始まった。


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